新居浜商工会議所
マイタウンウォッチング

−まちなかの魅力再発見−



 「新居浜のおもしろい所、ちょっといい所ってどこ?」と尋ねられてなんと答えますか。マイントピア別子、総合科学博物館、黒島のマリーナ・・・。少し迷ってから、こんな答えをするでしょうか。

 では「まちの中だったらどこ?」という質問にはどうでしょう。「おもしろところなんてひとつもない」と答えるかもしれません。あるいは、最近何年も「まち」へ行ったこともない人も少なくないでしょう。

 私たち商工会議所では、中心市街地活性化への取組のひとつとして30人ほどのかたがたと、まちの中の魅力再発掘「まちなかウォッチング」と題し、まちの中を歩いてみました。

 新居浜の原点といわれている「口屋跡」はもちろんのこと、住友以前から、西条藩唯一の魚座があり漁港として栄えてきた新居浜浦(現在の港町)の「魚塚」や「恵比須社」、昭和通り以前に繁栄していた「本町通り」筋、そして「葛淵」など、まち中のちょっといいところを約3時間かけて歩きました。

 すると、あるある・・・。見逃していたけれど「ここにこんなものが・・・」という発見や驚き。

 そして「これを、まち中の魅力としてもっと多くの人たちに知ってもらいたい」という、参加者の声がたくさん聞こえてきました。


藝備銀行新居濱支店跡

■アールデコ様式の洋館


 口屋跡から本町通りを少し東へ歩いてみましょう。アールデコ様式を基調とした「洋館」が見えてきます。「マナベ小児科」という看板が出ていますが、昭和6年3月に、「藝備銀行新居濱支店跡」(今の広島銀行)として建てられたものです。

 その後、国民金融公庫として使われたこともあるそうですが、昭和43年7月に、現在の「マナベ小児科」(真鍋豊彦先生)に引き継がれ、今もなお医院として、現役で活躍中です。

 室内は、医院としてのレイアウトになっていますが、玄関、窓などをはじめとする概観や2階部分の回廊、アールデコ調の内装などは銀行当時のままで、さらに金庫室も昔のまま残されています。

 真鍋先生のお話では、「何度か改装する機会もあった」そうですが、今まで大切に建物を管理してこられた先生には今更ながら頭が下がります。

 また、向かい側には、「今治商業銀行新居浜支店」として使われていたと言われる建物も残っており、この周辺が当時の中心地であったことが窺えます。


石鎚ビューポイント

■港町からのぞむ絶景


 潮の香りがして、カモメが群れ飛ぶ。漁船が舫ってあり、どこから見ても港町の風情がある。

 商店街に面した昭和通りから歩いて、5分もかからずにこの風景にたどり着くことができます。

 漁船の向こうに山が見え、海の向こう側に石鎚山を見ることができます。

 漁師さんが漁に出て行く早朝。人通りが少なく、静寂感があり、猫が昼寝をしているような日中も良いが、夕日の見える夕暮れ時がおすすめで、とりわけ満潮のときはすばらしい光景です。

 帰り際に、大江橋の方へ回ってみれば、裸電球のもと、地元の新鮮な魚を売り買いしている賑やかな場面に出会うこともできます。

 心癒される"まちなか"のビューポイントの一つです。


小女郎狸

■神楠の森に伝わる美しき姫の伝説


 「小女郎狸」を知っていますか。

 「ここ神楠の森には古くから棲みなせる小女郎狸ありて美しき姫に変化し霊験を現し又人々に幸福を授けると言い伝ふ」と言われるように、今は一宮神社の中で神様として祀られています。

 この小女郎狸が変化したという「美しき姫」ですが、今でも街の中で出会うことができます。

 口屋跡から本町通りを西へ向かってふらりと歩いてみると、すぐ左側の「垂水さん」のお宅の前、「美しき姫」の石像がにっこりとした笑顔で迎えてくれます。この小女郎狸は、約80年の間、ずっと同じ場所から本町通りの変遷を見続けてきました。

 でも、近づいてよく見てみると「美しき姫」の足元近く、ちょっぴりのぞいた片足は、爪のようなものが見え、まるで狸の足のように見えます。またその後ろには狸のしっぽのようなものが見えます。

 なんとも美しく愛嬌のある小女郎狸。
 街の中には、こんな美しい出会いもあります。


つづら淵の水

■新居浜の名水


 こんこんと湧き出る水。風にゆらぐ一本の大柳。心の中まで涼しくなってくるような清涼感あふれる場所。マルナカ若水店の東側駐車場の片隅に、ひっそりとまるで人目を避けるようにある、まさしく隠れた名所です。

 その歴史は古く、一宮神社の社史によると、なんと平安の昔から霊泉として多くの伝説が残っているという。由緒正しい「つづら淵の水」です。

 今でも、早朝からお水を汲みに来る人は多く、お茶の先生方にも愛用されているとのことで、隠れた「つづら淵の水」ファンは意外に多いです。

 また、コーヒーに使えば「まろやか」でおいしいとのこと。夏の時期のおすすめポイントで、あまり有名にならずに静かに浸れる場所であってほしいとっておきの場所です。


「魚塚」周辺

■新居浜の神々が集う場所


 太鼓祭りで毎年にぎわう、大江のふれあい広場。

 その広場の片隅にひっそり寄り添うようにして「大江恵比須社」「東須賀恵比須社」「石鉄山の石柱」「お稲荷さん」「毘沙門さん」などが寄り添うようにして集まっています。

 その中央に「魚塚」の石柱が位置しています。

 この神々は、もともとこの場所に祀られていたわけではなく、それぞれ別の場所に祀られていたものがこの場所に集められたそうです。

 例えば、「魚塚」などは、本来、西条藩唯一の魚座が新居浜浦にあった場所に祀られていたものが転々としてこの地に落ち着いた。ほかにも「秋月神社」「常夜灯」であった石片などもあります。

 秋の「太鼓祭り」の勇壮華麗さとあわせて注目してほしいポイントです。


口屋跡

■300年前の港町の賑わいを残す場所


 今から約300年前の1702年(元禄15年)に、別子銅山の粗銅を大阪や長崎を経由してオランダ、清国へ出荷するため「口屋新居浜分店」が、この場所に開かれました。

 当時、漁業の浦であった新居浜に「口屋」という物流拠点が開かれ、銅山用の百貨食料一切を収納、銅鉱輸送の重要拠点となっていました。

 口屋の開設は、新居浜の変貌を決定付け、口屋を中心に町は次第に発展していきました。

 口屋は、明治22年に187年間に及ぶ役目を終えますが、その後も、学校、町役場、市役所、図書館などに利用され長く新居浜の中心拠点としての役割を果たしてきたのです。

 新居浜市経済文化の原点となった口屋やその周辺を訪れてみるのはいかがでしょうか。


本町通り(昭和10年ごろ)

■本町通りアーケード

 昭和10年ごろまでの本町通りには、日よけのテントが張られていました。

 今でいうアーケードである。

 東は口屋跡、西は新居神社の手前まであり立派なものでした。

 ひもを引くと自由に開閉もできたそうで、アーケード入り口には「本町」と書かれたアーケードも設置されていました。


「口屋跡周辺散策マップ」

■口屋の歴史と魅力がこれ一冊に

 口屋開設300周年を記念して口屋周辺散策マップ「みなと・まち みつけて みつめて」を作成しました。

 マップは、写真や小学生の絵を中心に「まちなかの魅力」を情報満載でわかりやすく紹介しています。

 マップは無料でお分けしておりますのでお気軽にお問い合わせください。

【問い合わせ】
新居浜商工会議所 TEL:0897−33−5581



厳島神社・東町観音堂

■安芸の宮嶋ゆかりの神社

 みなと保育園の子供たちはとても元気です。冬でも半袖、半ズボンで元気よく外を走り回っています。

 このみなと保育園の正門入り口の両脇に石標が立っています。

 向かって右側の石標には「安芸の国 厳島神社」、左側の石標には「新四国第六十九番観音堂」、さらに「東町発祥の地」と記されています。

 しかし、道から見る限り、保育園があるだけで神社やお堂らしきものはどこにも見当たりません。

 実は、保育園の東側には東町自治会館があり、その脇に小さな木の扉があります。その扉を入ってずっと奥の片隅にひっそりとお堂が建っているのを見つけることができます。

 以前は、観音堂、厳島神社ともに現在の保育園の位置にあったそうですが、戦後になってその主役の場所を子供たちのために譲ってくれたようです。

観音堂本堂内の鰐口には宝永四年(1707年)「新居浜観音堂」の銘も残り、古くから人々の心の拠り所であったことが分かります。

 また、厳島神社は「安芸の宮嶋」ゆかりの神社で、「宮嶋さん」と呼ばれ、祭礼のときにはそれは大変ににぎわったそうです。

 保育園のとおりをはさんで反対側には、昔懐かしい丸型のポストが依然使用され、駄菓子屋さんも残り、懐かしい街角の風景をそこに見ることができます。


新居神社跡

■本町通りにの賑わいを伝える神社

 昭和8年発行の郷土研究第68号附録によると「新居神社」は次のように紹介されています。

「新居神社 西町にあり
 由緒  明治四十三年に左の三社を合祀せし村社
      恵比須神社 中町にあり。
      春宮神社   御代島にあり。
      海神社    東須賀にあり。
 現在社地は、大神宮と称し大麻と暦本の頒布をしていた所
 例祭は四月十五日、青年団の花角力を以って賑ふ。
 町民は敬神の念厚く、学校始め各団体とも事ある毎に参拝し益々その念を厚く養ふ。
 婦女子は早朝日参するもの多く一般も一日と十五日とによく参拝す」

 本町通りにあった新居神社の賑わいが目に浮かぶようです。

 昭和32年、一宮神社への遷座により、今は石碑がひとつ残るだけですが、本殿、鳥居などは、一宮神社本殿西側へそのまま移されているそうで、お参りする人も多く、今もなお、人々の心のよりどころとなっています。


文殊神社

■路地に隠れた知恵の神様


 「文殊神社」は、ちょっと探し出すのが難しいところにあります。
中須賀自治会館と谷口邸が目印となります。

 入り口の障子戸が印象的な谷口邸。その谷口邸の向かい側の細い路地を北へ歩くこと約15歩くらいで、左側にさらに細い路地があり、その奥に文殊神社が見えてきます。

 地元の方にお聞きすると、この文殊神社は知恵の神様、学問の神様と親しまれ、地域の方々に古くから大事にされてきたそうですが、中でも1月からの受験シーズンになると、遠方からもお参りに訪れる人もいるようです。

 このあたりは細い路地が多く、歩いている間に道に迷ってしまいそうになります。


歌人 吉井 勇

■新居浜を愛した歌人の軌跡

 「かにかくに 祇園は恋し寝るときも 枕の下を 水の流るる」という歌で知られている吉井勇氏。

 京都はもとより、伯方島などにも逗留していた話は有名ですが、私たちの、この新居浜で、その足跡に出会うことができます。

 「口屋跡周辺マップ」でもご紹介している東真木呉服店を訪問したときのこと、「吉井勇さんの書もありますけれどご覧になりますか?」と眞木さん。よくお聞きしてみると、父親にあたる眞木茂直さんが吉井勇氏と交際があり来新の際に、書いてくださったものだそうです。

 見せていただくと冒頭で紹介した「かにかくに・・・」の歌が、実に優しい字で、目の前に現れました。

その後、昭和11年11月15日発行の「郷土研究」に吉井勇氏来新の記事が次のように掲載されていました。

 「・・・例の伯爵歌人吉井勇氏も、14、5両日川東祭を見物して『方々を旅するが、これほどの祭はちょっと珍しい』といった。 ・・・瀬戸内海の秋を探りつつ新居濱に来た吉井勇氏は次のやうに歌った。

 新居濱にて 吉井 勇
  はるばると伊豫路に来れば新居濱の遠煙さへなつかしきかな
  おのづから秋の心となりぬらむ新居濱に来て海に親しむ
  秋祭り太鼓屋台に夕日さすころともなれば旅も寂しき  (他2首有り)」

 新居浜のイメージが文化的になりませんか。


昭和通り4丁目と街路灯

■ヒノキでできた街路灯

 まちなかの魅力は、古いものばかりではありません。

 昭和通りに、平成13年9月に整備された街路灯があります。場所は、通称「昭和通り4丁目」、愛媛銀行新居浜支店の近くです。

 もともとは雨よけや日よけにひさしのアーケードがついていましたが、明るく広々とした通りにしようと、思い切ってアーケードを撤去することになり、緑の少ない地域に憩いができればと「ひのき」の柱でできた街路灯を設置されました。

 その趣のある景観は来街者にも好評で、木の素材が柔らかく、優しい町並みを作り出しています。


東須賀の厄除け地蔵さん

■小林一茶ゆかりの「騎龍亭」の近く

 東須賀界隈の路地にたたずむお地蔵さん。海岸通り、松田酒店の西側の道を南に入るとすぐに見つけることができます。

 全体にふっくらふくよかで優しそうで、顔立ちも上品で、なんだか気品が漂っています。

 こんなに近くで、まじまじとお地蔵さんを見たのは初めてですが、とても親しみ深い感じです。

 台座正面には「新居濱浦 東次賀講中」、側面には「安永八亥年 三月立之」という文字が刻まれています。

 安永8年(1779年)といえば、今から220年以上も前のこと。平成13年が「口屋」開設300年でしたから、いずれも古い道筋ということになります。

 東須賀の厄除け地蔵さんの前の道を西へ進み、大江に入ると、さらに2カ所お地蔵さんがあります。そのうちのひとつは「明和」の年号があり、東須賀の厄除け地蔵さんよりも古いことがわかります。

 ちなみに、俳人「小林一茶」が新居浜を訪れたのが寛政7年(1795年)で、その時に宿泊したのが、この厄除け地蔵さんのすぐ近くにあったという「騎龍亭」だったそうです。

 そこで一茶は、「帳綴る加勢もせずに旅寝とは」という句を残しています。

 一茶もこのお地蔵さんの前を通ったかもしれません。


中須賀の金比羅さん

■かつての海岸線を守る石塔

 海岸通にある中須賀公園。

 港のすぐ近くで、潮の香りが漂い、海の方へ目を向けると、御代島の島影も鮮やかで、とても気持ちのよい公園です。

 その公園の南側の三角地帯に、金比羅さんの石塔があります。

 以前は、中須賀の恵比須さんと一緒にありましたが、恵比須さんの方は、漁師さんとともに清水町へと引っ越してしまいました。

 今は、金比羅さんの向かって左側に恵比須さんの祠(ほこら)。右側には石鎚さんが祀られています。

 ところで、この金比羅さんですが、ここにあるのには訳があります。海岸通から、中須賀公園に入ってくる、金比羅さんの前の道。ゆったりした曲線を描いて西の方へ続いています。

 この道はかつての海岸線で、今は面影はありませんが、金比羅さんはちゃんと昔の海岸線を守ってくれています。


谷口邸

■明治初期の風情を残す町屋造り

 本町通りと花園通りの角を西へ少し歩いてみてください。

 中須賀自治会館の向かい側に入り口の障子戸が印象的な谷口邸があります。

 明治初期の町屋の造りで、本町通りの風情、当時の面影をそのまま残しています。

 現在のご当主は、観世流能楽師で、日本古来の伝統芸能を継承する人物です。

 了解をいただいて障子戸を「からり」と開いて中にお邪魔すると、涼やかな土間の玄関があり、すぐ右側が帳場、お座敷と続いていきます。

 また、両脇の壁には、弓張りちょうちんを入れる箱が掛かり、当時を生きた先人たちの姿がしのばれます。

 伝統的な日本文化に触れる機会がどんどん減ってきた私たちの日常生活ですが、谷口邸には、それが今でも大切に残されています。


自彊舎

■昭和通り、新居浜発展の礎

 今もなお新居浜の中心地として位置づけられている昭和通り商店街。

 とてもにぎやかで楽しかった街の思い出をたくさん思い浮かべることができます。

 この昭和通り商店街、そして新居浜のまちがなぜこのように発展してきたのか、皆さんはご存知でしょうか。

 時に昭和2年、住友別子鉱山鰹務取締役であった鷲尾勘解治氏が、「別子鉱山なき後の新居浜の繁栄策を今から講ずるべきだ」として、新居浜築港、住友機械製作鰍フ独立、昭和通り建設などの都市計画の樹立をはじめとする事業を次々と実現しました。

港をつくり、産業を興し、基幹道路を建設するなど、その後の新居浜の発展や繁栄はこの時に形成されたといわれています。

 現在、元塚交差点を海岸通に沿って北へ約50メートルほど行き、元塚橋を渡ったところに「自彊舎」があります。

 昭和33年、鷲尾氏の新居浜帰住に伴って建てられたものですが、晩年の鷲尾氏が使われた書斎も残されており、毎月13日の月命日には、鷲尾氏の意思を引き継ぐ益友会の方々によって講話も行われています。

 入口の門を入ってすぐに、鷲尾氏の胸像があり、今でも昭和通り、そして新居浜のまち全部を見守ってくれているかのようです。


小野医院跡

■新居浜の「赤ひげ先生」

 医院入口の破風に施された繊細な装飾が見事で、通る人の注目を集めています。

 昭和12年1月1日発行「躍進 新居濱」には次のように紹介されています。

 「東町に大正6年以来の開業で耳鼻咽喉科、眼科、一般内科、院長医学博士小野氏で倉絹新居濱工場の嘱託である。
 氏は地方に於けるスポーツの大家で柔道武徳會五段剣道又三段である。
 在郷軍人新居濱分會長を勤め町体育の顧問青少年指導に専念し地方体育界に貢献する、又人格の人なり。
 厳父現代議士小野寅吉氏の長男にして地方の人望高く其徳を慕はれて居る。」

 第7、8、9代と3期続けて新居浜市長を努められるなど、各種要職を歴任されましたが、開業当時の小野先生を知る人は、口を揃えて「『赤ひげ先生』のような方だった」と親しみを込めて仰います。


共存橋・共栄橋

■「企業と地域は共存共栄」の願いをこめて

 昭和通りの元塚交差点近く。小さな小さな車で通ると気づかないほど小さな橋があります。

 つづら淵から流れる小川に架かるこの橋の名を「共存橋」といいます。さらに東へ約100メートル。尻無川に架かる橋の名を「共栄橋」。

 2つ揃って「共存共栄」となるこの橋は、昭和6年、当時の別子鉱業所所長・鷲尾勘解治氏が昭和通りを建設した時に架けられました。

 「企業と地域は共存共栄」「事業は道義に立脚して行え」「町も事業も人づくりが大切」と説いた鷲尾氏。

 元新居浜大丸前にある「申孝橋」も加え、これら3つの橋によって繋がれる昭和通り。そこには今も、氏の哲学、地域への思いが込められています。


初代新居浜市長 白石誉二郎氏

■企業と地域は共存共栄

 時に昭和12年11月3日。当時の新居浜町、金子村、高津村が合併し新居浜市制が施行されました。

 そして、初代新居浜市長に就任したのが、新居浜町長であった白石誉二郎氏でした。

 白石家の所在地は、現在の港町、小野医院跡の斜め向かいにあたる本町通り沿いにあります。

 「白石誉二郎翁傳」によれば、白石家は、宝暦4年(1753年)から新居浜浦の浜庄屋として、村の世話をしてきた家柄だそうで、現在の建物は氏の孫の道春氏の手によって建てられました。

 第2次世界大戦以前の家は、安政2年(1855年)白石又兵衛が建てたといわれている、畳100余畳、全部中2階の構造で、節なしの柱を用いて作られたものでしたが、疎開により学徒動員の手で取り壊されたということです。

 鷲尾勘解治氏とともに、新居浜の都市計画の基礎を築いた誉二郎氏が中心となって新居浜市長時代に発刊した「郷土研究」に次のような記述があります。

 「郷土研究」発刊の辞 昭和2年9月3日

 「・・・現在は過去に育み、未来を芽ぐむ。
 将来を左右せんするものは、現在に立脚し、現在に立脚せんとするものは、過去を  知らねばならぬ。過現未は通じて一体である。
 郷土を愛し、郷土の為に尽くさんとするものは、又よく郷土を知らねばならぬ。・・・」



               
          TEL 0897−33−5581
          FAX 0897−33−5609


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