愛媛県新居浜市は、1691(元禄4)年に開坑した別子銅山が育んだ町です。新居浜市発展の礎となり日本経済の発展にも貢献した別子銅山は、1973(昭和48)年に閉山になりましたが、海抜1,145mの地帯から斜めに深く長く帯状に貫入した鉱床は非常に珍しく、世界でも稀に見る大鉱床でした。また、283年に亘る長い間、一企業(住友)によって採掘された鉱山は世界にも例がありません。
 産業遺産は、イギリスを始めとする欧米先進諸国では、自分の国の成り立ちを追体験するモニュメントとして大切に保存・活用されています。新居浜市には、別子銅山関連の近代産業遺産が数多く残っており、新居浜市が世界に誇ることができるモニュメントです。
別子銅山の近代化に貢献した初代住友総理事広瀬宰平の旧邸宅。母屋は、明治10年に建築され、伝統的な日本建築様式を持ちながらもマントルピースや洋式便器、板ガラス、避雷針といった西洋文化が取り入れられており、2階の望遠楼と名付けられた部屋からは、新居浜市を一望することができます。
平成15年(2003)、国の重要文化財に指定されています。
歓喜坑
旧広瀬邸
歓喜坑は、標高1,202mにあり別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道です。歓喜坑と命名したことからも、路頭発見の当時の喜びと将来に向けての期待感が想像できます。ここから別子銅山の長い歴史が始まりました。
東延斜坑 機械場跡
採鉱の近代化を図るため、明治9年フランス人鉱山技術士ラロックの提言に基づいて、従来の曲がりくねった坑道ではなく、輸送・排出・通気を兼ね備えた近代的堅坑『東延斜坑(49度の傾斜、全長526m)』の掘削が進められました。東延谷を埋め立てて造成された約2,000坪の機械場は同18年に完成しましたが、同23年に蒸気巻揚機が採用されるまでは、馬力で鉱石台車を斜坑から引き上げていました。
明治20年頃建設。約2,000人の収容能力があり、廻り舞台を備え、京都から歌舞伎一座なども来て上演したと言われています。写真は、銅山道脇に現在も残る壮大な石垣で、当時の様子が伺えます。
小足谷劇場跡
東平索道基地跡
鉱石輸送の中継所として明治38年に竣工。第三通洞から運び出された鉱石は、いったん貯鉱庫に貯蔵され、その後、東平索道基地から鉄道の黒石駅まで輸送されました。昭和43年の東平坑閉坑により索道は廃止されましたが、索道基地跡や貯鉱庫跡が今も残されています。
第四通洞跡
大正4年に開通した端出場の第四通洞。昭和5年に採鉱本部が東平から移転し、昭和48年の閉山まで端出場は採鉱の拠点でした。写真は、主要坑道であった第四通洞で、現在もマイントピア別子で当時の姿をとどめています。
端出場 旧水力発電所
マイントピア別子の対岸に位置する建物で、別子銅山へ電気を供給するために明治45年に建築されました。この旧水力発電所は愛媛県を代表する西洋建築物の1つです。
ジーメンス社製発電機
明治45年(1912)、本格的な大規模電力設備として端出場水力発電所に出力3,000kwで建築されました。写真は、ジーメンス社製の水力発電機で、昭和45年(1970)にその任務を終えましたが、この発電機がある西洋風レンガ造りの建物は今でもほぼ当時のままの姿のまま残っており、その他にもフェイト社製のペルトン水車や水管などの発電設備が残されています。
明治26年に下部鉄道の橋として、ドイツの、ハーコート社のピントラスト橋を架けました。また平行弦ではなく、60度ずれています。現在、マイントピア別子では蒸気機関車『別子1号』を一回り小さくして復元しています。道中には、開通当時のままのトンネル、鉄橋があり、豊かな自然の景観を満喫できます。
芦谷川橋
星越駅舎跡
住友倶楽部
四阪島
日暮別邸
星越山の新居浜選鉱場(大正14年)完成の前に、同年、別子鉱山鉄道下部線「星越駅」が設置されました。従来は、鉱石を運ぶための専用鉄道の駅でしたが、昭和4年に一般客も利用できる地方鉄道に移行され、山田社宅の玄関口にもあたる同駅は、端出場までの通勤客などで賑わいました。今でも星越駅の建物は残されており、当時の面影を伝えています。
大正14年(1925)、星越山に選鉱場が設けられ、鉱石は星越まで鉄道で運ばれるようになり、選鉱場は東平から星越山に移転され、現在も稼動しています。
新居浜市の沖、約20kmの瀬戸内海上に位置する四阪島。住友金属鉱山株式会社四阪工場は、明治38年(1905)に操業を開始し、今年で100年となりました。現在では、製鉄所で発生したダストから亜鉛を回収するリサイクル事業を行っています。なお、四阪島へは一般の方の立ち入りはできません。
住友家の別荘だった「日暮別邸」。明治39年(1906)に建設され、壁はピンク色、暖炉用の煙突の付いた西洋館で、右側には和風建築が増設されました。この建物が位置する丘陵一帯を日暮と言い、四阪島精錬所を設計した塩野門之助が、数十日にわたり日の暮れるのも忘れて島端の丘に腰をおろし、風向きの観察をしたというエピソードが残り、それが地名の由来になったと言われます。
新居浜選鉱場
住友倶楽部は、住友関連企業の福利厚生施設として計画されたもので、昭和11年(1936)年2月1日に竣工し、迎賓館的な場として活用されてきました。その利用者は住友の社員と家族など関係者に限られており、厳格な礼儀、規則の遵守が課せられていました。
玄関を入ると大きなステンドグラスがはめ込まれており、柔らかい色彩とデザインは昔のままです。なお、現在の住友倶楽部は、住友金属鉱山鰍フ研修施設となっており、一般の方の立ち入りはできません。
別子銅山近代産業遺産
近代産業遺産マップ
旧住友銀行新居浜支店は、明治34年に住友本店別子鉱業所直営で建築され、昭和33年1月14日まで使用されました。平成13年4月に国登録有形文化財に認定され(新居浜市における産業遺産の国指定第1号)、現在は住友化学愛媛工場歴史資料館として活用されています。
写真は、大正時代のもので、右下は現在のものです。
旧住友銀行新居浜支店
旧別子エリア
  歓喜坑 ・ 東延斜坑 機械場跡 ・ 小足谷劇場跡
東平エリア
  東平索道基地跡
上部エリア
  第四通洞跡端出場 旧水力発電所ジーメンス社製発電機
  旧広瀬邸
  
川西エリア
  星越駅舎跡 ・ 新居浜選鉱場 ・ 住友倶楽部 ・ 
  旧住友銀行新居浜支店 ・ 口屋跡
四阪島エリア
  四阪島 ・ 日暮別邸
元禄15年(1702)、銅山越を経て立川を通り、新居浜浦まで至る泉屋道が完成したことに伴い、浜宿として「口屋」が設置されました。口屋には、代官所の役人や住友家の手代などが常駐し、船の積荷の検査や牛馬による銅山輸送などの業務を担当していました。また、口屋に運ばれた粗銅は、大阪や長崎を経由してオランダや清国に輸送されていました。
新居浜は、人や物流の拠点であったこの口屋を核に発展し、記念石碑や当時から残る口屋あかがねの松は、新居浜発祥の地としてのかつての賑わいを今に伝えています。
口屋跡
旧別子エリア
東平エリア
上部エリア
川西エリア
四阪島エリア